昔の人間の昔話(9)

泥沼は味方だ~雨の日の試合   by Fresh Down

 

東海大学のフットボール部も専用のグラウンドを持つようになり、更には人工芝の敷設も行われて練習にも試合にも快適な環境となった。公共の球技場、そして有力校の専用グラウンドは殆どが人工芝となっているようだが、2部リーグの大学グラウンドではどの程度人工芝化が進んでいるのだろうか。2部リーグの試合ではリーグ内の大学グラウンドが使用されることもあるようなので、まだまだ地面がむき出しのグラウンドでの試合もあることになる。人工芝の快適な環境に慣れてしまっfた場合、晴天時なら土のグラウンドでも大きな違いはないかもしれないが、雨に降られてぐちゃぐちゃになったグラウンドでは状況は一変する。

現在では多くの学校でアメリカ式の練習方法がとられているようだが、1970年頃にはそこまでできる学校は殆ど無かったことと思われる。ある意味日本的な根性第一主義とでも言うような練習方法であったかもしれず、アメリカ式の合理的なトレーニングとは大きく異なっていたと言っても良いだろう。

最後に勝敗を決するのは根性タックルであり、タックルに魅せられてフットボールを始めた者は少なからずいたはずである。かく言う私もその一人であるが、現在の試合に比べれば当時はランプレーの割合が多く、パスプレーが比較的少なかったことは確かである。勢いディフェンスバックの役割もパス守備と同様、あるいはそれ以上にランプレーを止める確実なタックルが必要であった。これが雨の日の試合となれば選手もボールも泥だらけになってしまうので、パスプレーは更に減ってしまうことになる。もちろん泥だらけになったボールは汚れをふき取って使ってはいるが、やはり晴天時のボールよりはパス攻撃に不利であったことは否めないであろう。ランプレーが多ければタックルする機会が多くなり、最後は泥まみれの根性タックルが勝敗を決するという雰囲気があったとしても、格別不思議なことではないだろう。

当時の東海大学は創部間もないこともあり、決して強いチームであるとは言えなかったが、雨の日の試合に関しては常に大善戦したと思っている。合理的な練習方法は晴天時には存分に効果を発揮することができるが、泥濘グラウンドでプレーする雨の日の試合では大きく勝手が違ってくる。天候が勝敗に影響するのは究極の試合とも言える戦争でも同様であり、弱者が強者を破る番狂わせは雨や霧の日が多いと言ってよいだろう。技術では弱小チームであった東海大学も根性では負けておらず、それ故に善戦したのではないかと思っている。

雨の日の試合で忘れられないのは2年の時の春のオープン戦、明治大学との一戦である。季節は6月の半ば頃かと記憶しているが、雨は冷たくて6月とは思えない肌寒い天候であった。場所は京王線沿線の明治大学グラウンド、当時はまだ人工芝というものは無かったし、さすがに天然芝を植えたグラウンドを持つことのできる大学は無かった。東京でも朝から降っていたかどうかは知らないが、開始時のグラウンドの状態は相当悪いものだった。

試合中も多少は降っていたと思うが、パスが全く出来ないほどの激しい雨ではなかったと記憶している。それでも地面に落ちたボールは泥だらけになってしまい、水気を拭きながらボールを交代して使っても、やはりパス攻撃には支障があったものと思われる。晴れていれば明治大学のパス攻撃で大差をつけられていたに違いないのだが、ランプレー主体の泥んこ試合では我々も善戦し、確か2本差くらいの敗北だったかと記憶している。当時の東海大学の実力からすれば、これは大善戦の結果であったと言うことが出来る。逆に勝ったとは言え、明治大学にとっては大いに不満の残る試合だったのではないだろうか。雨が試合に影響していたことは確かだが、一流校なので雨に原因を転嫁することは出来なかったものと思われる。

当然のことながら試合後は皆泥だらけの状態だったのだが、明治大学なら当然備えているであろう温水シャワーは使わせてもらえなかった。屋外に水だけの洗い場はあったと思うが、水では寒いし着替えることは出来ない。温水シャワーが使えなかった理由は全くの想像ではあるが、駆け出しの二流校相手に大差を付けることが出来なかったので、試合後特訓をやっていたのではないかと思っている。自分たちが泥だらけのグラウンドで練習をしているのであれば、やはり相手が悠々とシャワーを浴びているのを許すことは出来ないだろう。

さて、温水シャワーの使えない我々がどうしたかと言えば、近くにあると言う銭湯を紹介されてとぼとぼと歩いて行ったのである。もちろん防具は外しているのだが、それでも泥だらけのシャツとデカパンの集団が歩いているのだから、目撃者にとっては異様な集団に見えたに違いない。幸い誰にもとがめられることは無かったし、銭湯でも無事に入れてもらえることが出来た。泥だらけなので追い返されたらどうしようかと心配していたのだが、苦情を言われることも無く風呂に入ることが出来、緊張感が一気に開放された感じだった。地獄に仏という言葉があるが、本当にありがたい銭湯だった。

この時の銭湯は歩いて10分もかからない所だと思ったが、現在の住宅地図ではそれらしき銭湯は見当たらなかった。全国的に銭湯は減少傾向にあるので、この時世話になった銭湯も廃業となってしまったのだろう。もし銭湯が残っていて当時のことを覚えている人がいたら礼を言いたいと思ったいるのだが、浮世の流れは無情なものである。

この試合ではもう一つ忘れられない思い出がある。同期生で私と同じハーフバックをやっていたA君は高校時代はバスケットの選手であり、バスケット向きの細身ではあるが背の高い人物であった。今で言えばワイドレシーバー、当時でもエンド向きの体型であったのだが、大型のバックスが欲しいと言う監督の意向でハーフバックとなったようである。

細身とはいえ身長があるので体重もそれなりに重く、実際にタックルをしてみると「重量」と言うものを実感せざるを得なかった。その点では監督の思惑通りで、オフェンスでは使い方次第で攻撃力が増したものと思われる。しかし彼の最大の欠点はタックルで、ちょっと気の弱い面もあったのか、思い切りぶつかるタックルが出来なかった。背の高いことも悪い方に影響し、背中を丸めて横から体をぶつけると言う感じのタックルになっていたのである。

この日の試合でもその中途半端なタックルのため、大きくオープンを走られてロングゲインを許してしまったことがあった。しっかりとタックルしていればノーゲインだったのだが、それを見ていたエンドのMさんが激怒し、思いっ切りA君を蹴飛ばしたのである。試合中に先輩から注意されたり小突かれたりすることは珍しくは無かったが、それらは何れも発破をかけて奮起を促す程度のものだった。しかしこの時のMさんの蹴りは完全に本気モードであり、あれだけの強烈な蹴りを見たのはこの時だけである。