昔の人間の昔話(8)

人里離れた山の中で~夏合宿(2)   by Fresh Down

 

1年の時には安上がりな湘南校舎での合宿であったが、翌年の夏合宿は群馬県の武尊山中腹にある武尊オリンピアスキー場で行われた。
「武尊」は「ぶそん」ではなくて「ほたか」と読むのだが、登山あるいはスキーに興味ない人には馴染みの無い山であり、正しく読める人はいないことだろう。
同じ群馬県に生まれて暮らしてきた私でさえ知らなかったのだから。
 
この場所は名前の通り本来はスキー場であるが、夏場も客を呼ぶために幾つかのグラウンドが用意されていた。
ただし出来てから間もない施設であったためか、グラウンドの状態は快適と言えるものではなかった。
それでも標高が1000m程の高地になるので、湘南校舎よりは6度ばかり気温が低いことになる。
この場所を合宿所として選択したのは立教大学が利用していたためと思われるが、当然合宿も合同合宿と言うことになる。
とは言っても実力的にも人数的にも大きな差があったので、両者の立場は対等ではなくて我々が稽古をつけさせて頂く、と言った方が適切であったかもしれない。
 
初めて湘南校舎を離れての合宿であるが、私はこの合宿には途中からの参加となった。
と言うのは私が専攻していた海洋学部船舶工学科には「乗船実習」と言う科目があり、大学の保有する練習船に乗って駿河湾内で研修を受けなければならない。
必修科目であるから参加しなければ単位を取ることができず、留年と言うことになってしまう。
僅か一日だけの航海ではあるが、実際に船を動かす必要があるので、一般的な実験等のように追試験等で単位を取得する、というわけには行かない。
 
合宿所のある武尊高原へは、上越線の沼田駅から尾瀬方面に向かう路線バスに乗り、途中の停留所で降りて宿からの迎えを待たなければならない。
記憶が曖昧であるがスキーシーズンではないので、沼田駅からの直通便はなかったと思う。
乗船実習は静岡県清水市での出入港となるので、世界遺産となった三保の松原の近くにある大学の埠頭から清水駅まで行き、そのまま上りの東海道線を利用するか、あるいは静岡駅まで戻って新幹線で東京駅まで行き、上野駅まで行って上越線の列車に乗り込むことになる。
往復の時間を考えると3日は必要となるので、乗船実習を終えてから後半の合宿に参加することになったのである。
なお1年の時には1週間ほどの工場実習と言うのがあったが、こちらは7月中に行われたので合宿への影響はなかった。
 
前に防具の記事で紹介したセンターのN君が同じクラスであり、実習を終えてから二人揃って合宿所のある武尊高原に向かった。
路線バスの走る国道を離れてからは人家はまばらになり、なるほど山奥に入って行くなと言う感じが強くなってきた。
かなりの距離を走って合宿所のある施設に着いてみると、なにやら閑散としていて合宿と言う雰囲気はまったく見られなかった。
どうやら中休みの日であったために練習がなかったようであるが、それにしても静か過ぎる。
不審に思って上級生に尋ねてみると、 
「1年が逃げた」と言う返事が返ってきた。
 
1年が逃げた、と言われても俄かには状況を把握することができなかった。
街中にある施設ならともかく、ようやく辿り着いたこんな山奥からどうやって逃げ果せたのだろう、と言う疑問が真っ先に浮かんできたのである。
しかしそれは紛れもなく事実であり、総出で家に帰ったであろう1年生を説得して連れ戻す努力をしているとのことだった。
到底練習できるような状況ではなかったが、移動する手段もないのでN君と共に待機するしかやることはなかった。
なお立教大学も練習はしていなかったようだが、こちらは本当に中休みで休息していたのであろう。
 
途中参加の出鼻をくじかれた合宿であったが、1年生も徐々に戻ってきて全員揃っての練習ができるようになった。
グラウンドの状態は快適と言えるほどのものではなかったが、やはり高原にあるだけあって温度湿度共に低く、平塚にある湘南校舎のグラウンドに比べれば格段の違いがある。
2年になったので1年の時にしごかれた特訓もなく、合宿前半でのスタミナの消耗がなかったことも影響していたのか、苦しいと感じることのなかった合宿であった。
 
後年下級生に聞いた話によれば、立教大学との間で何らかの行き違いがあったようだ。
初めての校外での合宿であり、他校との対等とは言えない合同合宿でもあり、練習の進め方等に関して十分なすり合わせがないまま合宿に突入してしまったのかもしれない。
なおこのことは立教大学側においても同様かと思われ、他校との合同と言うことで勝手が違ってしまったのかもしれない。
 
何はともあれ、全員が無事に戻ってきたことは幸いであった。
夜中に合宿所を抜け出した彼らは追っ手を避けるために通常の道路を使わず、進路を大きく変えて農道とも言えないような悪路を伝ってバス路線まで逃れたと言う。
夜中に見知らぬ道を長距離に亘って逃走するのだから、怪我人が出たとしても不思議ではない。
怪我人が出て新聞沙汰にでもなれば、創立間もない貧弱なフットボール部であるから、恐らく廃部となることは免れなかったことであろう。
 
翌年も同じ武尊山中での合宿となったが、3年になった私はただ一人海洋学部のある清水校舎に移動し、十分な練習ができないまま合宿に参加することになった。
詳細は別途紹介する予定だが、コンタクト・スポーツとも呼ばれるアメリカン・フットボールの場合、走ったり筋トレをするだけでは到底付いていくことはできない。
いくら根性根性と精神論を語ったところで、肉体的な衰えをカバーすることは出来ないのである。
 
この年には大分人数が増えてきたので、東海大学単独でもそれなりの練習をすることができた。
とは言っても立教大学との間にはまだ大きな技量の差があったので、同じ所で練習すれば学ぶことは多々あった。
残念ながら私はそれを身に付けることができなかったのだが・・・ 
この年の合宿は無事に最終日を迎えたのだが、最後の練習が終わった後で1人の1年生が体調を崩し、沼田の病院まで運ばれると言うことがあった。
幸い大事には至らず、こちらも新聞沙汰となることはなかった。
 
実を言うと、この時に私も気分が悪くなり、目に付かない所でひっそりと休養を取っていた。
やはり普段の練習不足が祟ったのであろう、皆と同じ練習では過大な負担となっていたようである。
更に言えば、普段の練習不足を取り戻そうとして張り切り過ぎていたのかもしれない。
 
人目に付かないところで一人静かに休んでいて感じたのは、この秋が最後のシーズンになるだろうと言うことであった。
今は1・2年の練習で培った貯金で何とかプレー出来るが、翌年にはその貯金が尽きてしまうことは明らかであった。
毎日の練習で伸びてくる下級生に追い越されるのは時間の問題であり、試合には力のある者が出るのが当然なのだから。