昔の人間の昔話(4)

隠れた立役者・・・それはスパイク  by Fresh Down

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アメリカン・フットボールと言えば目立つのはヘルメットとショルダーパット、誰が見てもこれぞ「アメリカン・フットボール」と言えるものである。これだけ広まってきた現在でもそのイメージが強いであろうから、半世紀近く前においては尚更のことである。
私自身はフットボールをやりたくて自分から入部したのであるが、そのような練習や試合に必要な物は、当然のこととして部の方で用意してあるものとばかり思っていた。その時頭にあったのは前記の防具類であり、足元のスパイクに関しては全く意識に無かったのである。屋外で球技をやっている者にとっては信じられないことかもしれないが・・・
そもそも私はこの時まで革靴と言うものを履いたことがなかった。高校は群馬県立の高崎高等学校であるが、群馬県の公立校は男女別学の学校が多く、高崎高校は現在でも男子校である。その当時は現在ほど豊かな時代ではなかったこともあってか、男子校ならではの校風は質実剛健そのものであり、下駄履きにズックの肩掛けカバンを掛け、自転車で通うのが一般的であった。
体育の授業ではラグビーが正課であったが、授業で行うものだから皆布製の運動靴である。そしてクラブ活動は柔道であったから、革靴と言うものには全く縁がなかったのである。関西方面への修学旅行の際には下駄履きは禁止と言うことであったが、我が家には旅行だけのために革靴を買うほどの余裕は無かったので運動靴で出掛けている。
そんなこともあってか、フットボールはスパイクを履いてやると言うことが全く頭になかったのである。そして初めて防具の付け方等を教わった時、防具類は部の方で用意していても、スパイクは個人で用意しなければならないことに初めて気が付いたのである。因みに高校時代の柔道着も個人持ちではあったが、正課の授業でもあったので部活動とは別に所有することになっていた。

さて、防具は着けてみたものの、新入生でスパイクを持っていた者は誰もいなかったと思う。運動靴でも当面練習することは出来るが、近いうちにスパイクを所有しないことには本格的な練習をすることは出来ない。とは言ってもスパイクは決して安いものではないし、やっとこさ高い入学金と授業料を払って入った東海大学であるから、スパイクの代金を親にせびることは出来ない。授業と練習があるのだからアルバイトをすることは出来ない。
スパイクが買えないから辞めますとは言えないし、やりたくて入ったフットボール部である。さてどうしたものかと途方に暮れていた時、幸いなことに強力な助け船が現れた。
「俺は新しいのを買うからこれを使え」
と言って3年生のFさんがスパイクを差し出してくれたのである。しかも幸いなことに、それは小さな私の足にぴったりと合ったのである。
スパイクは防具類以上にぴったりと合ったものでなければならない。日常の靴なら多少大きくても、厚手の靴下や紐の締め付けで多少の調整が出来る。しかしスパイクの場合にはそんな小細工をしても、フットボールでは激しい方向転換を伴うので通用しない。私の足は24.5cmで男の足としては小さい方であるが、Fさんの足と同じだったのは偶然でもあり、幸運でもあった。いつ辞めてしまうかもしれない1年坊主に大事なスパイクを下さったのであるが、こいつは最後までやり通すだろうと信用されていたのなら嬉しいし、フットボールを続けることが出来てFさんには本当に感謝している。

そのスパイクは大手運動具メーカーの物ではなく、京王線代田橋駅の近くにある「シンモト」と言う小さな靴屋の製品だった。大手メーカーの製品は深さの浅いものが多かったようだが、シンモトのスパイクは踝まである深いものだったが、足首を曲げるのに何ら支障はなかった。単に長さだけでなく、幅も甲の高さもFさんの足と一致していたのかもしれない。
先輩から無料で頂いたスパイクだから大切に使ったが、無論練習をさぼっていた訳ではない。1年生は練習後の特訓もあったのでスパイクにも大きな負担がかかっていたと思われるが、手入れは怠らなかったので1年間無事に持たせることが出来た。そして冬と春のアルバイトで金を稼ぎ、2年になる前にスパイクを新調することが出来た。勿論シンモト製である。
Fさんからシンモトの場所を教えてもらい、代田橋駅から線路を越えて今度は戻って狭い路地に入り、線路沿いの一番奥にシンモトの工房はあった。革靴に関する知識は無かったので色々と教えてもらったが、カンガルーの皮が一番良いと言うことなんて全く意外なことだった。良い物が高いのはごく自然なことであるが、私の予算では牛革が精一杯であった。
足の寸法を測ってもらうのも初めての経験だったが、照れ臭さと共にかなり緊張したものである。しかしこうして作った物は既製品と違って特別な愛着がわき、大切に使って最後まで履き続けることが出来た。但し私の場合には3年から清水校舎へと移ってしまったため、練習量が減ってしまったことも影響していたと思われる。平塚で普通に練習していれば、どんなに大切に手入れをしたとしても、もう一足作ることになっていたことであろう。
開幕戦であるアミノバイタルでの防衛大との試合の帰り、同じ京王線なので現在はどうなっているのか訪ねてみた。40数年振りに降り立った代田橋の駅であるが、地下道が出来ていたりして多少変わってはいたが、シンモトまでの道順は昔のままだった。途中の家並みにはかなりの変化が見られたが、工房へは迷うことなく辿り着くことが出来た。残念ながら工房は普通の住宅に建て替えられており、ご主人の話では20数年前に靴作りはやめてしまったとのことであった。履きやすいし丈夫で長持ちしたスパイクであっただけに、後輩にも推薦したい逸品であったのだが・・・

現在では人工芝用と天然芝・芝無しグラウンド用と2種類のスパイクを用意しているそうだが、当時はまだ人工芝のグラウンドは無かった。従ってスパイクは一足でも間に合うのであるが、雨の日には短く擦り減ったクリーツでは滑りやすいので、新しいクリーツに付け替える等の工夫を怠らなかった。但し慣れない芝のグラウンドで新しいクリーツを使うと、引っかかりが良過ぎてつまずいてしまうこともあった。とは言っても芝のグラウンドで試合をする機会なんて、殆どなかったのであるが・・・
余談になるが、登山用のアイゼンは長大なクリーツを着けた究極のスパイクであると言えるかもしれない。使いこなせば極めて有用なものであるが、自己流で使っていた私にとっては厄介な代物でもあった。下り坂で爪が引っ掛かって危うく転びそうになったのだが、何とか難を逃れることが出来た。やはり道具と言うものは、慣れ親しんでいる物が最上と言うことであろうか。
クリーツはアルミ製と樹脂製とがあったが、バックの場合は軽い樹脂性を使う人が多かったものと思われる。アルミ製と比べると減るのが早いと言う欠点はあったが、やはり軽さの魅力の方が大きかったようである。現在ではクリーツが固定式の物も結構用いられているようだが、当時は固定式と言うのは聞いた記憶がない。あるいは使っていた人もいるのかもしれないが、クリーツが減っただけで廃棄してしまうのでは何とも不経済な話である。

フットボールにスパイクは付き物と思われがちであるが、多分規則では定められていないはずである。そしてかつてスパイクを履かないで勝利したチームがあったのだが、知らない人もいるかと思うので「スニーカーゲーム」とも呼ばれている試合のことを紹介しておこう。
戦前の米国での話であるが、ジャイアンツとベアーズの試合でグラウンドがコチコチに凍っていたことがあり、スパイクが通用しないと判断したジャイアンツのスタッフが町中を走り回ってスニーカーをかき集めてきた。急な話なので全員には行きわたらなかったが、何人かはスニーカーを履いて試合に臨むことが出来た。そしてベアーズの選手はスパイクが滑って思うように走れないのに対し、スニーカーの選手は十分とは言えないまでも優位に立つことが出来、結局ジャイアンツが勝利を収めることになった。
フットボールは戦争と同じであり、直接的なグラウンドでの戦いと同様、後方でのこうした支援が重要な役割を受け持っている。もしベアーズのスタッフがスパイクに見切りをつけ、急遽『わらじ』をかき集めて選手に渡していたとしたら、スニーカーのジャイアンツを破って「わらじゲーム」として後世に名を残したに違いない。
えっ?アメリカにわらじは無いだろうって?ええい、この小心者め!そんな小さなことに拘るでない!!