昔の人間の昔話(6)

練習は工夫次第~片面スクリメージ   by Fresh Down

 アメリカンフットボールもマスコミで取り上げられる機会が増えたせいか、現在では多くの大学で沢山の部員が存在しているようである。しかし私が入った当時はまだそれほど知られていないスポーツであったためか、古くからの有力校以外は部員の確保に苦労していたのではないかと思われる。創部間もない東海大学も例外ではなく、古い記憶なので確信は持てないのだが、シーズン初めで上級生が13人、私を含めて新入生は8人だったかと思う。動きのおぼつかない新入生を含めても21人であるから、全員が揃ってもスクリメージを組んでの試合形式での練習は不可能であった。

 個々の練習としては基本的なダッシュから始まってダミーを使ってのタックルやブロックの練習、あるいは決められたコースを走ってのパスキャッチやファンブルリカバー等、少人数でも問題無く出来るものもある。そして11人揃って各々のポジションに着き、指定通りの各プレーの動きを確認することは出来る。しかしフットボールは相手とぶつかることが使命の一つであると言っても良く、ただ走るだけでは不十分な練習であると言わざるを得ない。現在のように攻守双方にスタメンがセットし、22人揃っての実戦的な練習が出来れば理想的であるが、それは夢物語に過ぎなかった。 

 人数が足りないからといって嘆いていても事は進まない。ディフェンス要員に1年生を入れても人数が足りないのであれば、バックスでもラインの位置にセットして形だけでも防御体制を整えねばならない。元々人数が足りないのだからディフェンスバックの一部は欠員となるが、ランプレーの練習であれば致命的な欠陥ではない。 

 とは言っても素人同然の新入生をブロックしてボールが進んだとしても、対戦チームのレギュラー選手を同様にブロック出来る訳ではない。そこで一工夫して行っていた練習法が、片側だけに上級生を配置して攻守の技を競い合う片面スクリメージである。プレーが殆ど片側だけに限定されてしまう欠点はあるが、限られた人数で行うのでそれは止むを得ないことである。 
2年になった時には人数も増え、全面スクリメージも組めるようになった。しかし現在のように攻守専用のツープラトン制を採用するには至らず、下級生は力量に劣るので有力選手が攻守双方をこなす必要があった。当然試合では出突っ張りであり、下級生は臨時の交代要員として出場するだけだった。攻守双方をこなして丸々1試合出続けていても、試合中は疲れたと思ったことは無かった。負け試合では試合後に疲れが噴出するものだが、これは2プラトン制の現在でも同じことだろう。 

 私の経験では、攻守双方をやっていて良かったと思っている。元々タックルが好きでフットボールをやってみようと思ったのだから、どちらかと言えばディフェンスの方が好きであるし、一番好きだったのはキックオフラッシュである。しかし当然のことながらオフェンスにもディフェンスにはない魅力があるし、ラインの位置に入っての練習も今となっては懐かしい思い出である。 さて、少人数なので全面スクリメージは組めなかった時代であるが、立教大学との合同練習で何度かは実戦風の練習をすることができた。これは当時の監督が立教大学のOBだった関係で、強豪で格上の立教との合同練習が実現したものと思われる。言うなれば相撲界の出稽古のようなもので、新参部屋の力士が幕内力士のいる部屋に出かけていくものと思ってよいだろう。 

 老舗チームに教えを請うのだから当然こちらから立教の練習場に出かけていくことになるが、立教のグラウンドは埼玉県志木市にある。志木市と言われても何処にあるのは皆目見当がつかなかったのだが、池袋から東武東上線を利用するよう伝えられた。私が下宿していたのは平塚市北東部の学校の近くなので、普段の練習では短時間で帰れて便利だったのだが、埼玉まで行くとなるとなかなか大変なことであった。 

 取りあえずは池袋まで行かなければならないのだが、経路は2つある。1つはバスで東海道線の平塚駅まで行き、品川経由山手線で行く経路、もう1つはやはりバスで小田急線の大秦野駅まで行き、新宿経由山手線の経路である。時間的にも経済的にもそれほどの違いは無かったと思うが、同僚のN君が秦野に下宿していたので一緒に小田急を利用したことが多かったかもしれない。通うのは大変であったが、生まれたての弱小チームと練習してくれるのはありがたいことであった。 

 練習内容に関して言えば、やはり一流の大学は違うなあという印象を受けた。バックスで言えば腰を捻ってタックルをかわして走り抜けるような技術は、信じられない芸当であった。今ではNFL中継などで頻繁に目にすることであるが、当時の私にとっては神業のようなものであり、残念ながらその技を習得することはできなかった。 

 他人の技術を参考にして自分のものにするのは大切なことではあるが、体格面も含めて個人差があるのだから、単純にまねをしようと思ってもそう簡単にはいかない。自分なりに工夫して身につけなければいけないのだろうが、二流の私は残念ながらその域に達することはできなかった。 

 現在では授業の時間は全ての学部で同じようであるが、当時の湘南校舎では理科系と文科系とで授業を行う時間が異なっていた。理科系の最後の授業が終わるのが4時か4時10分、そして文科系はそれから50分後だったかと思う。私の場合は海洋学部ということで理科系に属し、早い時間に終了するグループだった。 

 全員が揃うのは5時近くになってからとなるが、勿論それ以前に自主練習をやることは可能であった。でも一度もやらなかったのは怠け者であったわけではなく、やはりそれだけの体力は無かったというのが実情であった。高校時代にやっていた柔道とは全く違ったスポーツであるから、一口に体力と言っても両者では全く異なるものであり、共通点と言えば「根性」くらいのものであろうか。 
練習場となっていたのは総合グラウンド、練習前に小石拾いをしなければならないほど悪い状態であった。照明も防犯灯程度のものであり、パスの練習では十分な光度を得ることはできなかった。5時過ぎになると秋のシーズンでは薄暗くなってしまうので、パス練習は明るいうちに済ませ、暗くなってきたらランプレーやタックルの練習を行うなどの工夫は必要であった。 

 走ることに関しては暗くなっても問題なくできるので、新入生に関してはオスペなる特訓があった。オスペとはスペシャル特訓の省略丁寧語(?)であり、きつい練習が終了してからの特訓であるから、スペシャルきついものであった。 
100ヤードダッシュ10本などと言われても、本当にダッシュなんて到底出来るはずは無い。スタート時はダッシュしても20ヤードも行けば流すだけとなってしまうが、それは上級生も承知していることだった。重要なのは脱落することなく付いていくことであり、正に根性を問われるものであった。 

 ダッシュ以上にきつかったのはダウン・チャージと言う練習であった。これはセットした状態からチャージの号令でダッシュし、ダウンの号令で急停止してセットの状態に身構えるものである。きついのはダッシュする時よりも急停止する時であるが、こうした静と動の繰り返しはフットボール独特のものであろう。今にして思えば、よくあれだけのことが出来たなあ、と他人事のような気さえするのだが・・・