昔の人間の昔話(14)
学校は柵で囲まれ、ただ一人清水へ by Fresh Down
前にも述べているが、当時の海洋学部は最初の2年間は湘南校舎または札幌校舎で学び、三学年になると清水校舎に移ることになっていた。海洋学部の同期生は3人いたのだが、センターのN君は教科書パットが祟ったのか留年してしまい、バックスのA君は秋のシーズンが始まってからだったろうか、始まる前だったろうか、フットボールをやめてしまったので、結局清水へは私一人で行くことになってしまった。
一人で清水へ行けばまともな練習は出来ないことが分かっていたので、授業が始まるまでは湘南校舎で熱心(多分?)に練習に参加した。平塚での下宿先は既に引き払い、荷物も清水の新しい住居に送っていたのだが、兄が西武池袋線椎名町駅の近くにいたのでそこから通っていた。平塚での下宿は学校の近くの金目だったので通うのも楽だったが、池袋から通ってみるとさすがに時間がかかる。松戸から通学していたA君の苦労が分かる気がしたものである。
この当時流行っていた学生紛争は都内では下火になりつつあったようだが、その代わりに周辺の大学に飛び火して東海大学にも火の手が広がってきた。現在ぐるりと広がっている頑丈な鉄の柵はこの時に出来たもので、当時の施設は全て内部に収まっていたはずである。随分とごつい柵を作ったものだと感心すると共に呆れたものだが、現在でも十分に機能を発揮しているようだから、相当金をつぎ込んで作った代物に違いない。現在でも残っているのはその機能を生かしていると言うよりも、撤去するのに金がかかるので放置していると言うことだろうか。
清水での下宿先は、平塚への移動を考慮して駅まで歩いて行ける家を見つけることができた。乗車券も定期にするか回数券にするか決め兼ねていたが、金額的にはそれほど違わなかったので融通性に勝る定期券で通うことにした。当時も新幹線は開通しており、清水から東京へ行く場合には、三島まで行くよりも静岡まで戻って新幹線を使うのが早かったようである。平塚校舎の場合には小田原で新幹線を降りることになるが、貧乏生活の身ではとても新幹線を使うだけの余裕は無かったので、往復とも在来線利用であった。
清水からは土曜日に授業が無ければ午後からの練習に参加することも出来たのだが、理科系の三学年では殆どその余裕は無かったと記憶している。日曜日には柵で囲まれた湘南校舎は完全に閉鎖され、東海大学の学生でも中へ入ることが出来なくなっていたようだ。したがって前の日に電話してどこで練習するかを確認しておく必要があったのだが、初めて行く所も結構あったし、清水からでは湘南校舎より近くなることは無かった。
小田原からは小田急電鉄を利用し、大根(現在の東海大学前)駅で降りて歩くことになる。大秦野駅の方が急行が止まって便利なのだが、バス利用となるので費用は余計に嵩むことになる。余計な出費は出来る限り控えなければならない生活状態であったが、そんな時に小田原駅の駅弁「鯵の押し寿司」はありがたい存在だった。当時は一般的な幕の内系の駅弁が300円だったと記憶しているが、「鯵の押し寿司」は半分の150円だったのである。当時の「鯵の押し寿司」は今の物よりも細長かった記憶が残っているが、3個x3列にガリと醤油が入って8個(現在は10個)入りだったかもしれない。それでも幕の内弁当1個の価格で2個買えたので、飯の量の多い寿司弁当は空腹を満たすには十分であり、貧乏学生にとっては有り難い存在だった。
清水での練習はと言えば、着替える所も無ければ走る所も無いと言うのが実情だった。武道のように少人数で場所が狭くてもある程度は対処できるものもあるが、フットボールの場合には筋トレ等は何とかやることが出来ても、体力の維持には走ることの出来る広い場所が無くては始まらない。現在の清水校舎は一学年から受け入れているし、学生の数も増えたせいか大分敷地が広くなっている。私がいた当時は隣接するその場所には大学付属の工業高校が建っており、高校生がラグビーの練習をやっているグラウンドもあった。あるいは頼み込めば端の方で走ることくらいは出来たかもしれなかったのだが・・・
人数が少ないと困るのは他のクラブでも同じ事で、体育会の集会に一緒に出ていた同じクラスのT君に漕艇部に誘われた。海洋学部で持っていたボートはナックルフォーと言うタイプだそうで、漕ぎ手が4人にコックスと呼ばれる舵取りが付いて5人で1チームとなる。湘南校舎で漕艇をやっていたのは同じクラスにもう1人おり、残り2人は清水で入部した新人だった。そして最後に誘われたのが私で、体重が一番軽かったのでコックスと言うことになった。4年生も何人かいたのだが、漕艇の大会は秋で4年生は出ないとのことだった。
漕艇用のボートは公園等の貸しボートとは違って座席がスライドするようになっている。貸しボートでは殆ど腕の力で櫂を漕ぐことになるが、漕艇では両腕を伸ばしたままオールを持ち、脚を伸ばすと座席と共に体が動いてオールを漕ぐことになる。腕よりも筋力の強い脚で漕ぐので早く進めるのだが、実際ボートをやっている人間の脚は筋肉で太くなっている。ただしこの筋肉はあくまでもオールを漕ぐためのものであり、フットボールで必要な走るための筋肉とは全く違っていると言って良い。
フットボールとは全く違った漕艇ではあるが、何もやらないよりはまし、と言う見方も出来るだろう。しかし全く異なったスポーツであるから、体力のみならずフットボールの感覚が薄れ行くのは紛れも無い事実であり、体をぶつけ合う練習が出来ないのも致命的な欠陥だったということが出来る。
漕艇の練習は駿河湾西端の清水港より更に奥深い折戸湾が主体であったが、某アニメによく登場する巴川に入ることもあった。当時は全国的に公害の最盛期であり、巴川ではオールで跳ねた水が臭くてたまらないと言う状況だった。これはこれで貴重な経験となったのだが、部活はあくまでもフットボール優先であり、土日は前述のように首都圏へ向かう生活が続いていた。漕艇の大会は秋に相模湖で行われたのだが、フットボールの公式戦と重なってしまったので大会に参加することは出来なかった。
四年生になった時には大学の制度が変わり、海洋学部の学生は二年(多分一年からではなかったと記憶している)から清水校舎に移ることになった。新三年生には海洋学部の学生はおらず、新二年生としてガードのD君とセンターのO君の二人がやってきたが、QBのS君は留年となって来ることが出来なかった。D君とO君は湘南校舎で1年しか練習することが出来ず、二年生になって力を伸ばす時期にあったのだが、バックスの私には彼らを指導することは出来ず、申し訳なかったと思っている。
海洋学部も現在では学生が増えたためか、フットボール部が出来て東海リーグに所属して活動している。一度練習を見たことがあるのだが、指導者がいないためか実戦には遠く及ばない練習と言う心象を受けた。フットボールが全国的に広まっていくのは嬉しいことであるが、地方での指導者不足は東京一極集中社会の延長と言えるかもしれない。いくら情報網が発達しても、最後は人間による指導が大切であるということなのだろう。